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長年にわたり歯科界の動きをチェックし、鋭い視線で切り込みます。茨城県出身。(医科歯科通信)

コンセプト

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私の歯科人生 山本嗣信

2010年3 月18日 (木曜日)

「私の歯科人生」 付記編(2) 山本嗣信

帝国データバンクによると、印刷業者の倒産は2009年、過去最多であった。

年次推移では、2007130件、負債総額1638800万円、2008139件、0負債総額4945200万円、2009174件、負債総額5558400万円と増加傾向。

原因は、市場縮小で競合が激化するなど、印刷業者を取り巻く経営環境は悪化の一途を辿っている。

出版業界の低迷に加え、世界経済の停滞で、広告宣伝費削減のあおりを受けたのである。

日本歯科新聞社もかつては、倒産した印刷会社の(株)デイ・エスで新聞を刷っていた。

日本歯科新聞社の前身の臨床通信社が倒産して、東京歯科材社の吉田初太郎社長らが、臨床通信社を改組し、日本歯科新聞社として再建した。

吉田初太郎さんが同じ東京上野法人会の知人の水野冨久司さん(デイ・エス社長)に頼み込んで、新しい印刷所(当時の生産経済新聞社)で新聞を刷ることとなった。

水野冨久司さんは元産経新聞社の東北支局長。

日本歯科新聞社の創業者の横田真二郎さんとは、元産経新聞社では同僚であった。

横田さんは産経新聞社の満州総支局長をしていて、戦後日本へ引き上げてきた。

二人ともGHQによって公職追放された立場であった。

因みに、デイ・エスは()神戸新聞と合併した。

現在、神戸新聞は倒産したデイ・エスとの資本関係はない。

我々が産経新聞社で出張校正をしていたころは、まだ、鉛印刷であり、活字を拾う名人たちがいて、驚くようなスピードで活字を組んでいた。

組みあがると、棒ゲラと呼ばれた印刷紙がテーブルに積まれた。

女性記者たちは衣服が汚れるので、前掛け姿であった。

建設、住宅、自動車、宝飾、不動産、精密機械、教育、農業、医療などあらゆる業界紙、専門紙のスタッフが大部屋の校正室にいて、日刊紙は個室の校正室であった。

水野冨久社長は禿げ頭にハットをかぶり、外出先から戻ると大声で「オッス」と挨拶した。

「君たち、そろそろ、天下を取れるかね!」と聞く。

「まだまだ」と応じると、「早くせんと、天下の方が逃げていくぞ!」とハッパをかける。

元産経新聞社の同僚の横田さんには、気兼ねして時々食事に誘っていた。

「まあ、日本歯科新聞は伸びてきたね! うちの取引先に中では、有望だ。週刊紙にしたんだかね」

そして、副会長の立場で、日本専門新聞協会への入会に尽力してくれた。

ところが、国会記者クラブへは入れるのに、水野治雄社長は手続きを最後まで取らなかった。

厚生労働省の記者クラブと国会記者クラブは連動していたので、幹事が「おい山本、国会へ何で来ないんだ」と酒を飲むと訝った。

結局、日本専門新聞協会会員は単なる名刺の肩書きに過ぎなかった。

つまり、体外的に箔(重みを加える)を付けたのだ。

しかし、デーリースポーツ、日刊スポーツ、競馬新聞の「エイト」まで印刷していた印刷大手のデイ・ケイ:デイ・エスの倒産はショックであった。

2007年がピークで33億8000万円。

固定ユーザーは約60紙とされた。

なお、外部から専務取締役を招聘したが、2009年解任している。

負債は約22億900万円。


2010年3 月10日 (水曜日)

「私の歯科人生」 付記編(1)山本嗣信

「私の歯科人生」について

何故、「私の歯科人生」を書いたのか?

私の『原点』の確認である。

人は出会いによって、人生が変わる場合が少なくない。

仏教では、『善智識』あるいは『悪知識』と表現している。

善友と交わるか、悪友と交わるか。

人生の大きな、分岐点である。

例えば、麻薬などに手を染め友人、恋人、愛人、夫などが『悪知識』。

付き合う相手によっては、不本意ながら影響を受けて自分も犯罪者となってしまう。

日本歯科新聞社の創業者の横田真次郎さんとの出会いは、すでに記してきた。

「水野君が、会社を辞めるので助けてくれ」と横田さんから懇願された。

多少の戸惑いもって、厚生省の記者クラブ(日比谷クラブ)の記者仲間に相談した。

「山本、横田さんは金儲けが下手だ。社員が定着しない。あんな会社に絶対に行くな!」と忠告された。

「横田さんの部下になったら、苦労するよ!」

私は、子どものころからの習性であろうか?

人の忠告には、素直に従えない人間なので、『評判が悪い人』に肩入れしたくなる性格。

大学時代も、東大に合格したのに、あえて日大に来た男の存在に拘泥した。

無論、成績はトップで総長賞をもらい卒業した男だった。

この男も評判は最悪であった。

「東大なか卒業したら俗物人になる!」

「俗物人間ですか?」

私には、この男がとてじゃないが、よく理解できなかったが、肩入れしたのだった。

肩入れとは、友情のようなものであっただろうか?

ところで、元日本歯科医師会会長の臼田貞夫さんも日大歯学部での評判も芳しくはなかった。

 

 


2010年3 月 4日 (木曜日)

「私の歯科人生」新・飛躍編(11) 山本嗣信

人生を振り返れば、『思い入れ』『思い込み』が多かった。

同時に、記してきたことに奥行きがないことを痛感している。

記憶が薄らいでいく分、内容が浅いのである。

一方、多くの方々の文章には、濃密な人間関係が投影されていて、読めば感嘆するばかりである。

大分、古い話となるが、薬業時報の田代記者がバイク事故で亡くなった時に、「専門紙記者列伝」でも書こうか、と友人の太田さんに言ったら、「山本さには、書けないでしょうね」と言われてしまった。

改めて綿密に取材をしない限り、亡くなった田代さについては、深くは知っていなかったのである。

話は変わるが、『思い入れ』では、日本歯科衛生士会では、金澤紀子さんより江島房子さんに比重を置いた。

それは成り行きであった。

広島市まで知人の中野愛子さんに会いに行く。

広島行きの本来の目的は、日本歯科新聞社発行の月刊誌「アポロニア21」の原稿料を看護師の方に届けるためだった。

実は、原稿料が原稿を掲載して約1年間払われていなかったのである。

当然、紹介者の若松さんの面子が潰れる。

「失礼ではないか」と若松さんは言いたかったのだろうが、水野治男社長に遠慮があったのかもしれない。

不義理がそれまで、少なくないと私は懸念をしていた。

「払うべき時期ですよ」と進言した。

そこで、私が直接原稿料を広島県まで、届けることとなった。

その看護師の方を紹介したのが、医学情報社の若松明文社長であったと記憶している。

「アポロニア21」の編集に医学情報社が協力していた時代があったのだ。

看護師の方に原稿料を届けたら、「わざわざ、来ていただいて・・・」と広島名産のお菓子(もみじまんじゅう)をいただいた。

その後、私は広島大学歯学部附属歯科衛生士学校へ足を向けて、教務主任の中野愛子さんに会いに行く。

「今日は」と机に向かっていた中野さんに背後から声をかけた。

「あら、久しぶりね。元気そうね。昼ご飯食べに行こうか」

中野さんは、振り向くと席を立った。

「歯科衛生士会は、どうなの?」

元日本歯科衛生士の副会長であった中野さんは、役員を降りてからは代議員会にも姿をみせなくなっていた。

「相変わらずです」と私は答えた。

「山本さん、歯科衛生士はレベルが低いの。深入りするのはよしなさい」

意外なことを言うなと私は、中野さんを見詰めた。

庶民的な感じの食堂に案内された。

そして食べたのが広島名物お好み焼き。

「ここの店、美味しいのよ」と中野さんが言う。

確かに一味違っていた。

「久しぶりに会ったのだから、ご馳走する。仕事が終わったら飲みに行こう」と中野さんは店を出たら言う。

私はついでに、広島県歯科医師会などにも顔を出した。

松島悌二会長(当時は専務理事)には、広島県歯科医師会の特集号でお世話になっていたので挨拶に行く。

この日は木曜日で会館に来ていたのだった。

夕刻になって中野さんに会って、レストランに連れて行っていただいた。

「私はお酒が飲めないのよ。遠慮せず、何でも飲んでね」

話が弾んで、中野さんは、広島県歯科衛生士の会長を呼ぶと言う。

私はそのころ中国人の女性と交際していて、新幹線の終電で戻ることを告げていた。

東京駅の銀の鈴で待ち合わせをしていたのだ。

「残念だわね。今日、広島に泊まれないの」

中野さんはとても残念がっていた。

「また、広島に来ます。今度は私がご馳走しましょう」と指きりの代わりに握手をして分かれた。

因みに、中野愛子さんは後年、医学情報社から「歯科衛生士概論」を発行した。

縁は実に異なもの。


2010年3 月 3日 (水曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(11) 山本嗣信

西武池袋線の大泉学園駅に下車したのは、15年ぶりであろうか?

歯科専門雑誌「日本歯科評論」に、海外歯科情報(トピックス、ニュース)を連載していた森崎益夫さんには、海外歯科情報や新製品の評価、歯科管理問題、歯科医院経営問題などで何度か取材している。

歯科界の羅針盤・指針としての役割が期待される見識と博識の持ち主として、尊敬していた歯科医師のお一人であった。

大病してカラダが弱ってからは、2度ほど、大泉学園の自宅から東京・水道橋までタクシーで日本歯科新聞社まで来られた。

セミナー講師に招かれ講演に来られたのに、あるスタディーグループは、参加者が一人。

それでも、にこやかに笑って、「今日は、講演というよりは、個人教授か対談のようですね」と前置きして、歯科の新しい技術について語りだした。

私は事務局の立場で、「申しわけありませんでした」と詫びると、「たまには、こんなことも、ありますよ」と気遣いをされた。

それが、最後の出会いであった。

私は昨日、懐かしさから、大泉学園駅の周辺を歩いてみた。

<参考> 

なかなかの文人家でもあった森崎さんのことが思い出された。

俳句の神田川芭蕉の会の会員の森崎益夫さん。

松尾芭蕉は忍者か (単行本)

森崎 益夫()

「歯科ペンクラブ」に連載していた「松尾芭蕉は忍者か」が単行本となったことも。

また、科医療管理学入門/医歯薬出版

総山孝雄・榎本貞司・落合靖一・織家勝・榊原悠紀田郎・佐々木達夫・宮田侑・森崎益夫・森本基 .


2010年2 月27日 (土曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(10) 山本嗣信

年代的には遅かったが、自己変革と自己刷新が、私自身の命題となった。

「バックボーン」とは精神的支柱。

思想・信条などの背景にあり、それを成り立たせる考え方。

35歳の私は、結局、余命3か月の母を喜ばすという方途・目的として、信仰を受け入れた。

自己中心的な考え方から、人の幸せまで祈れる人間への転身・自己変革。

つまり、確執があった母への愛を取り戻すこと。

『親孝行』という形で表出する『日本的親子の相互関係』の構築。

「信仰で、失うものはなにもない。多分、自己変革と自己刷新にはプラスになるだろう」

それが、当時の私の心情であった。

「バックボーンを持ちましたよ」と私は、歯科矯正メーカーの社長の村上留吉さんに報告に行く。

「そうか、今後の活躍を期待しているよ」

村上さんは、歯科矯正のテクニックについては歯科医師と対等以上に話せる人物であった。

それが、『煙ったい』と忌避した歯科医師も少なくなかったと思われる。

私の知人のインプラント専門誌の天才編集長と村上さんの姿がダブル時がある。

「先生、それは違うでしょ。こうですよ」

ズバリと言われた歯科医師の面子は?!

村上さんは歯科メーカーの経営者なのであるが、歯科医師に対して『指導してあげよう』という立場を貫いた。

「先生、もっと、勉強しなさいよ。私が助言するから・・・」

私が出会った、最も強気な歯科業者であっただろうか?

村上さんは、私の前から忽然と消えた、そのように思われた。

「これから、飲み行こうか。恵比寿の駅で待っていて、5分くらいで行けるからね」

電話の向こうで朗らかな村上さんの声がした。

私は日機装を訪問してから、恵比寿駅前からランサーインターナショナルに電話をかけたのだ。

私は恵比寿駅で約1時間待っていた。

何かのアクシデントがあったのだろうか?

村上さんは、恵比寿駅に姿を見せなかった。

電話をかけたが、会社の人たちは帰ったのだろう、誰も電話に出なかった。

そして、その後、村上さんは社長を息子に譲り引退。

その後、ランサーの廃業を知った。


2010年2 月24日 (水曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(9) 山本嗣信

癌になった母は、それを私に隠した。

母は、私の妻の母親と親しい友人関係であったが、確執が生まれ疎遠となっていた。

「二度と顔を見たくない」と双方が敵視するまで、二人は険悪な関係となっていた。

死を予感した母は、「敗北した」気分になっていたのかもしれない。

母は誕生日の7月まで生きられたら68歳。

妻の母は2歳年下で65歳(92歳まで生きた)。

国立相模原病院へ母は、何故、入院せず街の小さな胃腸病院へ自ら選んで入院したのだろうか?

想像してみるが、妻の実家は国立相模原病院から歩いて3分ほど。

母は、そこに入院していることを妻の母に知られたくなかったのかもしれない。

そこで、相模大野駅から小田急江ノ島線の東林間駅前の病院へ入院したのかもしれない。

また、自宅から北里大学病院へも近かったが、何故かそこへも行かなかった。

妻の実家に北里病院も幾分近かったのであった。

医療ジャーナリストをして、北里大学病院、国立相模原病院とも私は取材をしてきていた。

私に治療や入院について、相談されなかったことが、非常に悔やまれた。

息子の私が原因で、私の母と妻の母は親しい友人関係であったのに、二度と顔を合わせなかったし、母の葬儀にも妻の母は顔をみせなかった。

因みに、母の葬儀には後輩のM君が運転して、水野治雄社長が私の実家まで列席していただいた。

「手伝うことあれば、遠慮なく言ってください」と水野さんが好意を示したのが有難かった。


2010年2 月23日 (火曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(8) 山本嗣信

私の個人な女性問題が、日本歯科新聞社内で話題となってしまった。

不本意であるが、身から出た錆というもの。

由紀子に会って愚痴をこぼす。

二人の仲は、友人以上、恋人未満。

神田のガード下のバー「フロリダ」

「開き直るのよ。やまちゃん」と由紀子は言う。

ママさんは、20代からの私の友人で、東京女子大学出。

「そうよ。開き直りなおりなさい」とママさんも諭すような口調である。

由紀子は、築地の寿司屋の若旦那に嫁いでいた。

「私、やまちゃん、と結婚しなくて良かった」と由紀子が屈託なく笑った。

私は、覚めた気持ちで由紀子を見詰め直した。

妻が子ども連れて家を出て行った時も、由紀子に会って愚痴をこぼした。

「大変ね。洗濯くらい、してあげようか」と由紀子が思わぬことを言った。

「その気持ちだけ、頂こう」と私は好意に感じ入った。

私は、バックボーンを持つ命題を負っていた。

由紀子はクリスチャンで、私の35歳の誕生日に聖書を贈ってくれた。

「悔い改めない」

「何を?」

「やまちゃんが、犯してきた罪よ」

結局、私は信仰を先延ばしにして、開き直った。

そして、日本歯科新聞に、「片木奈緒里(ひらきなおり)」のペンネームで開き直った。

 

 

 


2010年2 月22日 (月曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(7) 山本嗣信

既に記したことの続編である。

歯科矯正メーカーのユニテックから独立して、ランサーインターナショナル社を設立した村上留吉さんに、「期待しているからね。バックボーンを持ちなよ。宗教でもいいから」と言われたことが、頭の片隅に残っていた。

「では、哲学にするか」などと思ってはいたが、相変わらず自堕落な生活を送っていた。

そこへ姉から電話が自宅にかかってきた。

「お母さん、余命半年だって・・・」

姉が泣いていた。

「何か、できることはないかな?」と私は神妙な気持ちとなった。

「つぐのぶ、のこと、毎日、お母さん祈っていたんだよ」

それは、知っていた。

26歳の時は、水難の相がある、と易者に言われて、息子の無事安穏を祈っていたのである。

私は、台風の日に茅ヶ崎海岸の遊泳禁止区域で泳いで、高波に沖までもっていかれて、九死に一生を得た経験があった。

その日も、母は自宅で祈っていたのだ。

翌日の新聞の朝刊で、私の周囲で泳いでいた人たち皆が死んだか、行くへ不明になったことを知り愕然とした。

高波にまれる、ということが、私には理解できずにいた。

自然の驚異を甘く見ていたのだ。

私は、姉に勧められるままに、親孝行をしようと思った。

「お母さんにお金借りたのでしょ? 内職をしたり、パートで働いて、コツコツと貯めたお金だったのよ」

私は、知ってはいたが、姉に言われれば気持ちがズシリと堪えた。

切羽詰り母に200万円を借りたが、600万円の私名義の横浜銀行の通帳を私は受け取っていた。

「女の人と、別れたんでしょ?!」

「ああ・・・」

私は生き方の方向転換を図る覚悟を決めた。

私は結局、姉が住んでした神奈川県の相模原市橋本の寺へ行くこととなった。


2010年2 月21日 (日曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(6) 山本嗣信

桜井充参議院議員は、東京医科歯科大学医学部を出た内科医師である。

桜井参議院議員は吉田直人さんが宮城県歯科医師会会長の時に、新幹線の中で出会ったことで、歯科界との交流が始まった。

独特のしゃべりをすることでも、印象のある政治家である。

桜井充さんに初めて接したのは、平成14年、宮城県歯科医師会で行われた「桜井充後援会・歯科医療を考えるネットワーク」の発会式・懇親会。

愛知学院大学歯学部の河合幹教授(当時)も発起のお一人であった。

また、鶴見大学歯学部の瀬戸 晥一教授も名前を連ねていた。

高校生の同級生も歯科医師が数名おり、参加していた。

さらに、茨城県の神栖からも歯科医師が来ていた。

2度目に接したのは、東京都歯科技工士会の新年会に飛び入り参加して、挨拶をした時である。

全国各地の歯科医師会に招かれ講演をしていたが、歯科技工士会の会合は初めてだたと思われる。

招かれないのに自らやってきたのが、如何にも桜井議員らしい行動であった。

その時、私は桜井議員に改正薬事法について、問題点を指摘したら、「よく理解できないので、後で連絡をください」といったが、私はそのままにした。

「官僚に問題があるのではなく、政治家が官僚を使いきれていない」と桜井さんは言っていた。

また、「歯科医師が歯科医師の価値を分かっていない」とも言っていた。

重要な指摘だと思った。

つまり、価値が分かっていないのだから、力の出しようがない。

「今、高齢者が必要な歯科医療を受けていない。約8割の人が受けて以内と言われている」

では、どうすべきか?

体制を整えることが大事。

ただし、そこには大きな理解が必要。

これだけ、歯科医療に理解をもっている参議院議員がいることは、歯科医療にとってプラスに作用するはず。

私の歯科人生の貴重な出会いであった。


2010年2 月17日 (水曜日)

「私の歯科人生」 新・飛躍編(5) 山本嗣信

 昨年(平成21)11月であっただろうか、庄内宗夫さんと姻戚関係にあるという女性歯科医師の方にお会いし懇談した。

その歯科医師のお父さんと松尾通さん(元日本歯科医師会代議員、東京・開業)が、学生時代に同じ釜の飯を食べたという仲であった。

ところで、北海道デンタルショーの会場で毎年、当時の北海道歯科医師会会長の庄内宗夫さんに会ってきている。

だが、個人的に話はしていない。

庄内さんは、昭和51年から平成6年まで会長を務めた実力者であり、日本歯科医師会代議員としても、発言力のある歯科界の重鎮の一人であった。

山﨑一男日本歯科医師会会長と同世代の、おそらくは、最後の人の訃報(91歳で逝去)に、昭和の時代も遠く去った思いを新たにした。

私は昭和52年に歯科界に足を踏み入れており、同時代を歩んできた方々には格別の親近感を抱いている。

また、前日本歯科医師会代議員の國松久輝さんがお亡くなりになった。

享年75歳。

昨年9月の日本歯科医師会代議員会を傍聴に来られた。

病み上がりの様子で、寂しい思いがした。

國松節が代議員会で聞けないことを、残念に思った。

真面目な気性で一本気の國松さんは、臼田貞夫元日本歯科医師会会長とは、相容れない立場であり、日本大学歯学部同窓会の健全化を叫んでおられた。

私の個人ブログの読者のお一人でもあり、コメントもいただいた。

私は日本歯科医師会の会員向けレセコンの開発に否定的立場であり、その立場で発信したブログの内容に、「これは、ちょっと、違うのでは?」と短いコメントを寄せたことが忘れられない。

また、私が『限りなく創作に近い詩的真実』と題して記したブログには、「これは、どのような意味であろうか?」とコメントを付した。

21日、國松さんが期待していた、日本歯科医師会の会員向けレセコン「レセック」が運用開始された。

奇しくも、その1週間後に、國松さんは鬼籍入りしたのだった。

個人的にはあまり言葉を交わしたことはないが、吉田製作所で國松さんを見かけたのは、何年前であっただろうか?

國松さんの歯科診療所は、吉田製作所の近くにあって、情報交換などで歯科メーカーにも度々足を運んでいたようであった。