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2010年8 月26日 (木曜日)

マイクロソフトの電子カルテ参入

じょつ JMM [Japan Mail Media]  No.598   2010825日 より

医療情報戦争: 電子カルテとゲノムを巡る戦い

【マイクロソフトの電子カルテ参入】

上 昌広(かみ・まさひろ)

 

東京大学医科学研究所 探索医療ヒューマンネットワークシステム部門:客員准教授

Home Page:( http://expres.umin.jp/ )

帝京大学医療情報システム研究センター:客員教授

「現場からの医療改革推進協議会」

 

( http://plaza.umin.ac.jp/~expres/mission/genba.html )8月13日、日経新聞は一面トップで、マイクロソフトが日本の病院向け情報システム事業に参入すると報道しました。

すでに、立川病院への試験導入は済んでいて、今後3年間に30以上の病院への導入を目指すようです。

IT業界に君臨したマイクロソフトも、最近はグーグルやアップルに押され気味。生き残りをかけ、医療分野に集中投資するようです。

これは、米国では周知の事実らしく、7月28日のNEWSWEEK日本語版には「マイクロソフトが挑む医療大革命」という記事が掲載されています。

この中で、同社が開発した、患者情報を統合するソフトウェア「アマルガ」、患者記録を保管するオンラインシステム「ヘルスボールト」が紹介されています。

著者のダニエル・ライオンズ氏は、医療は基本的に情報管理ビジネスで、必要な初期投資が大きいため、一部の大企業しか参入できないという意見を紹介しています。

私も、この見解に賛成です。

私が勤務した病院では、IBMや富士通の電子カルテを使っていましたが、あまり良い印象がありません。

鑑別診断を挙げるような診断補助機能があるわけではなく、院内で蓄積されたデータを用いて、医師が研究できるわけでもありません。

いわば、「ワープロ」に過ぎませんでした。

これでは、いくら政府が頑張っても、電子カルテは普及しません。

我が国の電子カルテをリードしてきたのは、富士通、日立、IBMです。

しかしながら、世界レベルで見れば、何れも電子カルテに重点をおいているとは言えません。

この状況はマイクロソフトの参入により、大きく変わるかもしれません。

【オバマとNEJMが主導するゲノム医療】

日経やNEWSWEEKは、「医療の効率化のために電子カルテが必要だ」と主張しています。

確かに、重要な指摘です。

しかしながら、「コスト削減」だけでは、電子カルテは普及しません。

電子カルテでなければ出来ない、何らかの付加価値が必要です。

私が注目しているのはゲノム情報に基づく個別化医療です。

膨大なゲノム情報を扱うにはITの助けが必要不可欠だからです。

いまや、学術誌にゲノム研究が紹介されない週はありません。

特筆すべきは、世界最高峰の医学誌New England Journal of Medicine (NEJM) 7月22日号の巻頭言で、フランシス・コリンズNIH長官とマーガレット・ハンバーグFDA長官が「個別化医療への道」という論文を寄稿したことです。

両氏は米国のライフサイエンス研究と医薬品開発の責任者です。

彼らが、ゲノム医療の将来性を高く評価し、そのための体制整備が必要と主張したのですから、米国の国策と言えるでしょう。

また、NEJMでは5月27日号から「Genomic Medicine」という総説の連載が始まっています。NEJMの読者の大半は一般開業医ですから、編集部は、ゲノム医療は実用化されつつあると考えているようです。

ちなみに、コリンズとハンバーグはオバマ大統領が政治任用した医師です。オバマは大統領選を控えた2006年に「ゲノムと個別化医療法案」を提出しており、大統領就任後は、着実に人事を進めています。

オバマ、およびブレインたちの構想力、行動力には舌を巻きます。

ブッシュ政権での停滞を一気に取り戻している感があります。

Nature Publishing Groupと情報工学】

一方、Nature誌を発行するNature Publishing GroupNPG)は、NEJMとは異なる点にもフォーカスしています。

それは情報工学です。

例えば、Nature 5月27日号には、肺がん患者の病変部と健常組織のシークエンスを比較した研究が掲載されています。

この研究の特徴は、肺がんの原因を、「多数の遺伝子の突然変異のネットワーク」と認識していることです。

従来のゲノムワイド関連解析(GWAS)では、突然変異同士の「相関」の議論に終始していたこととは対照的です。

同誌は8月12日号でも、同様の研究を掲載しており、医学研究の中心が「ネットワーク」に移りつつあることを示している。

ちなみに、肺がんの研究を発表したのは、ジェネンテック社の研究者たちで、彼らの所属は「Department of Bioinformatics and Computational Biology」です。

かつてのバイオベンチャーの雄が、情報工学にウェイトを置いているのは時代を象徴しています。

膨大な遺伝子のネットワークを解析するには、ソフト・ハードを開発し、専門家を養成しなければなりません。

NPGは、この点を強く意識しているようです。

例えば、Nature6月24日号では「Science after the Sequence」という記事を掲載し、生物学や医科学研究者の多くが、今後は情報工学の必要性が高まると考えていることを紹介しています。

また、Nature Medicine 8月号では「Tech Meets BIO」という記事を掲載し、医科学研究で活躍する4人の情報工学専門家のインタビューを紹介しています。

4頁にわたる長文で、編集部の意気込みがわかります。

【グーグルの登場】

ゲノムは研究室の中だけの話ではありません。すでに「商品化」が始まっています。

23 and ME」という会社をご存じでしょうか。

同社のサービスを利用すれば(口腔粘膜を送るだけです)、糖尿病や癌などへの罹りやすさから、先祖に関する遺伝情報を、400ドル程度で調べることができます。

このサービスは、既に多くの日本人も利用しているようで、様々なブログに体験談が紹介されています。

例えば、「私には著しく腰痛になりやすい遺伝子があるそうだ(父が生涯背負ってきた苦痛だが、私は未だ経験していない)」や、「母方の祖先はヨーロッパ、アジア、北アフリカ出身」などの記載があります。分析はかなり専門的です。

では、誰がこのようなプロジェクトを企てたのでしょうか。実は、この会社の親会社はグーグル。

シリーズAで調達された900万ドルのうち、390万ドルは同社が提供しました。

遺伝情報をグーグルが押さえることで、どのようなビジネスが可能になるかは、容易に想像がつきます。

余談ですが、7月2日、ボストン大学が長寿遺伝子を同定した研究成果がサイエンス誌で発表されました。

また、8月16日には東大医科研の中村祐輔教授たちが、ケロイドに関連する遺伝子を同定したとNature Genetics誌が発表しています。

長寿と美容は太古以来、万人の願い。続々と発表されているゲノム研究の成果は「23 andME」に膨大な売り上げをもたらすでしょう。

【ゲノム情報と教育】

このような試みは、グーグルだけに限りません。

世界中でゲノム情報を用いた「商売」が試みられています。

例えば、中国国家戦略企業の一つ上海バイオチップコーポレーションは、ゲノム情報を子どもの教育や職業選択に利用するサービスを提供しています。

フジテレビの「エチカの鏡」や夕刊フジが報道したので、ご存じの方も多いでしょう。

我が国にも代理店が存在し、多数の問い合わせがあるようです。

このように、ゲノム産業は医療だけに留まらず、教育、スポーツ、さらに化粧品・美容業界、農業にまで広がりつつあります。

こうなれば、不心得者も出現します。最近になって、米国FDAは、患者に直接販売する(DTC)遺伝子検査の品質保証の議論を始めました。

「規制が必要か」、「規制するとすれば、どこか」が争点です。

米国の動きは迅速です。この様子をNature誌などが報道し、多くの関係者が議論に参加することが可能になっています。

興味深いのは、学術専門誌の存在が、医学界・科学界の透明性を高め、民主主義を守っていること。

我が国も見習いたいところです。

【ゲノム戦国時代】

ゲノム医療では、大企業も熾烈な競争を繰り広げています。

例えば、シークエンサー開発では、イルミナ、パシフィック・バイオサイエンスなどのベンチャーを追いかけ、サムスン、IBM、ロシュなどが参入しました。

再編を繰り返しながら、豊富な資金が流れ込み、研究開発は加速するでしょう。

また、ゲノム解析は北京ゲノムセンターが、英国サンガーセンターや我が国の理研を抜き去りました。

情報処理はIBMのスパコンが主導権を握りつつあります。

かつて、日本のお家芸と言われたスパコン開発に昔日の面影はありません。

さらに、電子カルテはマイクロソフト、患者への情報提供はアップルやグーグルが攻勢をかけています。

やがて、患者が自分の診療情報をクラウドで保管し、iPhoneを用いて閲覧する時代がくるでしょう。

こうなれば、電子カルテは急速に普及し、その規格はユーザー主導で統一されざるを得ません。

【取り残される日本】

我が国の状況はお寒い限りです。有識者の中には、「ゲノム研究はもう終わった」

という人すらいます。

とんだ見当違いです。確かに、2003年にヒトゲノムの完全版が公開されましたが、ゲノム情報が臨床応用されるのは、これからです。

我が国の総合科学技術会議は、漸く、ことの重要さに気づいたようですが、その戦略は心許ないです。

詳細は、オピニオン誌『集中』7月号に書かれています。

同会議は、ゲノム研究を、来年度の科学・技術の重要施策に選びました。

しかしながら、重点を置いているのは、ゲノム・コホート研究です。

おそらく、京都大学が推進している長浜市のコホート研究が念頭にあるのでしょう。

このプロジェクトは、確かに重要です。

しかしながら、グーグルが「ネット・コホート」を構築している横で、一地方都市をモデルにした「精密な箱庭」を作っても意味がありません。

幸い、我が国には理研を初めとしたゲノム研究の伝統があります。

戦略次第で、世界と伍して闘うことも可能です。そのために必要なのは「情報工学者の養成」と「情報公開・規制緩和」。この状況、太平洋戦争に酷似します。

世界の潮流を理解できなかった大本営は、大砲巨艦主義に固執し、連合国に敗れました。

そして、敗北を国民に隠し続けました。

ゲノム競争でも、官僚が情報を統制し、有識者が密室で政策決定しているようでは、「敗戦」は避けられないでしょう。

我が国に必要なことは、「パイロット」である情報専門家の養成、および「大本営」である総合科学技術会議、厚労省の解体かもしれません。

いまこそ、世界の潮流に目を向けたオープンな議論が必要です。


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