「私の歯科人生」 新・番外編(17) 山本嗣信
山下公園へ行って、カメラを取り出したら、「内臓メモリーの空きがありません」と表示された。
SD Cardを自宅のパソコンに入れたままであった。
それでは、撮影はできないので、カメラをバックにしまい込む。
産業貿易センターで例年、横浜デンタルショーが行われていて、横浜は思い出の多い街だ。
ところで、4人が吊るんで、遊んでいた頃(昭和52、3年の頃)のことも、思い出された。
4人は麻雀仲間でもあった。
差し障りがあるので、青山さんとしておく、「今、横浜いるんだ。来ないか」と九段下ビル2階の日本歯科新聞社に電話がかかる。
「青山さんが横浜で待っているの、山本さんも行くでしょ」と電話を受けた孝子さんが促す。
「当然。行く」という意思表示で私は肯いた。
横浜の大学を出た青山さんは、4年余住んでいた横浜界隈を話題にして、かねがね我々を案内したい、と言っていたのだ。
青山さんは桜木町の改札口で待っていた。
「なんだ、緑君を連れて来なかったんだ」と青山さんは落胆した様子であった。
「緑さんは、日本歯科医師会の代議員会の取材です」と私は説明した。
駅前からタクシーに乗って山下公園へ行く。
「山本君、若くていいな。俺も君くらいの年齢ならなぁ・・・」
青山さんはカモメにポップコーンを与えていた。
「緑君を連れてきたら、今夜も徹夜で麻雀ができたな」青山さんは、拘っていた。
私はポップコーンを口に放り込みながら、緑さんと外神田の旅館に泊まったことを想っていた。
「山本さんは、私にとても大きな借りを作ったのよ」
私は緑さんの言ったことが、理解できなかった。
その翌日は、日本歯科新聞の校正で、私と緑さんは泊った旅館から、上野1丁目の印刷所の生産経済新聞社へ行く。
中央通りを渡るところで、タクシーから降りてきた、水野治雄さんの姿を見た。
私は声をかけた。
ところが、緑さんは、「水野さんは近眼なのだから、声をかけなければよかったのに・・・」と非難した。
私は後年、青山さんと緑さんが同棲していたことを知る。
青山さんは、緑さんに外泊をさせて私を一度も責めなかった。
ところで、賭けごとが好きな青山さんは、「山本君、我々3人の前をアベックが何組通過するか、賭けよう。偶数か? 奇数か?」
「そうですね。偶数にします」
「それなら、俺は奇数に賭ける。勝った方が3000円だぞ!」
私は応じた。
時間は20分。
私は、偶数で勝った。
ところが、青山さんは孝子さんと腕を組んで、私の目の前を通過。
「最後は、奇数! 3000円頂き」と手を出した。
その3000円で、常盤町六道の辻通りの「勝烈庵」のロースカツを食べた。
昭和52年のできごとは、忘れ難く馬車道を通ると、「勝烈庵」に立ち寄りたくなる。








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